ハンブルクの歴史



歴史

 建設されて百年をすぎたハンブルクの市庁舎は、これまでいろいろな歴史の変遷を見てきました。第二次大戦もその一例。1943年(昭和18年)の空襲によってハンブルクは徹底的に破壊され、5万5千人に上る人々が亡くなられました。このときの況については、ハンブルク歴史博物館で特別展を行っていますので、是非ご覧になって下さい。

 さて、ドイツの戦後経済の復興に貢献したのは、"Mr.Wirtschaftswunder"(経済復興の奇跡)の異名を持つルードウィッヒ・エアハルト。「統制は敵、すべてを自由に」をモットーに社会的自由経済を導入し、アデナウアー首相の下で経済大臣として辣腕を振るい、のちに首相も歴任しました。

 今日のドイツ経済の基礎を固めたエアハルトの生まれたのは、1897年2月4日のこと。そうです。生きていらっしゃれば今年で百才のお誕生日を迎えることが出来たのです。生まれ故郷は南ドイツのフルトで、1970年代にアメリカ外交の中枢を占めたキッシンジャーと同郷の仲です。

 敗戦国から経済大国へと似たような運命をたどった日本。1963年10月16日に首相の座についたエアハルトの日本のカウンターパートは、1960年に首相になった池田勇人氏。池田内閣の所得倍増政策が進捗し、「高度経済成長」という言葉が流行りました。家付き、カー付き、婆抜きという流行語もありました。1964年開催の東京オリンピックを目前にしてテレビ受像器1000万台を突破、という景気のいいニュースも報道されました。

 米大統領選もテレビの時代になり、ケネディとニクソンが史上初のテレビ討論を行い、ハンサム、スマート、弁舌さわやかのケネディが1961年1月、大統領に就任しました。6月にウィーンで米ソ会談が開かれた折り、フルシチョフは東ドイツと単独講和すると言明。これは懸案のドイツ統一の望みをなくし、連合軍管理下にある西ベルリンの地位が失われる恐れがあるので、自由陣営はこぞって反対。ところがこの年の8月12日から13日にかけて、東ドイツ政府は「ベルリンの壁」の構築を始め、東西ベルリンの交通を完全に遮断したのでベルリンを巡る東西関係は悪化。2年後の1963年6月にベルリンを訪れたケネディが、市庁舎のバルコニーでベルリン市民を前に"Ich bin ein Berliner!"と言ったのはあまりにも有名。それから5カ月後の11月22日、ケネディ大統領はダラスで暗殺されました。

 そのケネディを偲び、アルスター湖にかかる橋の一つはケネディ橋と呼ばれています。もう一つの街灯の並ぶノスタルジックな橋は1868年に作られ、当時湖畔にあった市営の質屋「ロンバルト」の屋号にちなんでロンバルツ橋と呼ばれます。ドイツのロンバルト金利やロンドンの金融街のロンバート街とは同じスペルですが、北イタリアはミラノを中心とするロンバルディア地方出身の商人たち(ロンバルディア人)に由来するものと思います。

 イギリスでは13世紀末にエドワード一世がユダヤ系の金融業者を追放、この前後からロンバルディア人がイギリスにやってきて商売を始め、サラ金ならぬ金融業を営んで富を築いたとか。だからハンブルクの質屋の方がそれにあやかろうとして「ロンバルト」質屋の看板をあげたものと憶測します。ついでのことながら開店したのは1651年で、質草が無くなって店を閉じたのが1827年、ベートーベンの亡くなった年です。あまり関係ないか、、、

 話を橋に戻します。戦後、VWの「かぶと虫」を始め、自動車の生産台数が増えるとともに、当然のことながら交通量も増加。それに対応するため1951年から53年にかけてロンバルツ橋と並行する橋を建設し、これを第二ロンバルツ橋と命名。それから10年後に、暗殺されたケネディ大統領に敬意を表して、ケネディ橋と改名されました。
 ではルードウィッヒ・エアハルトに敬意を表して名付けられた通りはあるでしょうか?あるんです、これが。戦後に作られた幹線道路の第一号は東西を結ぶOst-West-Str.でニコライ教会のある通りといえば皆さんご存知。この幹線道路の一部が1990年10月30日にルードウィッヒ・エアハルト・シュトラーセと改名されたのです。話のついでに、この年の1990年10月3日は東西ドイツが統一した記念すべき日として、国民祝日に制定されました。

 このように通りの名前を改名したり、新興住宅街に命名する場合、ファンクラブ(? )や利益団体などが当該区役所に提案。それを区の方で検討して最終的にはハンブル ク州政府が決めます。エアハルト通りはCDUキリスト教民主同盟が提案したものと思 われますが、1971年にノーベル平和賞を受賞したヴィリー・ブラント元首相に敬意を 表して通りの名前を改名しようとする動きがSPD社会民主党を中心として数年前にあ りました。でも未亡人が「対象とする通りが小さすぎる」と鶴の一声。おじゃんにな りました。

 同じく元首相のヘルムート・シュミット氏はハンブルクの出身で、今もハンブルクは 空港に近いランゲンホルンにお住まいです。エアハルト氏が中央政府で活躍されてい た頃、シュミット氏はハンブルク州の内務大臣を務めておられました。その後、中央 の政界にでられて国防大臣、経済・大蔵大臣を歴任して1974年から1982年まで首相。 65才になられた1983年にハンブルクの名誉市民に選ばれました。どのあたりがヘルム ート・シュミット通りになるか、今から興味津々です。

 そしてエアハルト。寝室以外では葉巻を口から離したことで有名ですが、生誕百年を 記念して2月初めに、葉巻をくゆらせるエアハルト氏をモチーフにする記念切手が発 売されます。これに反対してベッチ郵政大臣に釈明を求めるのが、徹底して禁煙運動 を推し進めるローランド・ザウアー国会議員。この方、エアハルト氏と同じキリスト 教民主同盟の所属ですが、超党派的で1996年末に発行された社会民主党のカール・シ ュミット氏をモチーフとする切手にもいちゃもんつけてます。この人も葉巻を手にし ているのです。喫煙が体に良くないことはわかるけど、みんながタバコ止めたら、税 収が減るのはもちろん、年金も生命保険も貰える金額と少なくなるのとちゃう ?

【始めに】



市庁舎 Rathaus

 ハンブルクの市庁舎は、建設されてから1997年に百年目を迎えました。
 百年前といえば、日本は明治の30年。日清戦争が終わり、世界の列強が中国に注目し 始めました。ドイツも負けてはならじと、1897年11月にドイツ人宣教師殺害事件を口 実に青島(ドイツ人の指導で作ったのが、かの有名なビール)を武力占領し、翌年3 月の条約で膠州湾を99カ年の期限付きで租借しました。同じような手口を使ってイギ リスが租借したのが香港、今年の6月に中国に返還されるのは皆様ご存知。

 さて市庁舎の話。鍬入れ式が行われたのは、1886年5月6日のこと。緑の党から怒られ そうですが、地盤がもろいため、直径1。長さ12。に及ぶ樫の木を4000本から打ち込 んで基礎工事を行い、11年後の1897年10月26日に落成式を挙げました。全部で647の 部屋があり、バッキンガム宮殿の部屋数より多いことが自慢。特別なことがない限り 、月曜から金曜の10時から15時まで(土/日は10時から13時まで)30分毎に案内人付 きで市庁舎内部を見学することができます。

 ところでこの市庁舎は六回引っ越しした挙げ句に作られた建物。この前の市庁舎は18 42年5月5日から8日にかけて大火事があり、類焼を食い止めるため爆破されてしまい ました。それから3年後には、ハンブルクの水道・下水管敷設工事を技術指導したイ ギリス人のリンドレー、ベニスのマルコ広場をモデルにしたアルスター・アーケード を設計したシャトーニュフ、ドレスデン・オペラ座を作ったハンブルク生まれのゼン パーが新庁舎の設計図を次々と提出したのですが、ハンブルク政府はうんといわず。

 最終的には国際コンペが催され、優勝したのがマルティン・ハラー。お父さんはニコ ライ・ハラーといって、1863年から1869年までハンブルクの市長を勤めた人です。で も親の七光で注文を貰った訳じゃありません。因みにテニスコートの近くにあるハラ ー・シュトラーセという通りの名は、お父さんの方に敬意を表して名付けられました。

 市庁舎がオープニングした時に市長を勤めていたのはフェースマン。同市長の名にち なんだ通りはハンブルク港の一角にあります。現在、ハンブルクの市長を勤めるのは 、SPD社会民主党のフォシェラウ。奇しくも市庁舎ができて百年目の記念すべきこの 年、1997年9月21日に州議会選挙があります。当選すれば在位9年で、戦後歴代の市長 の中では在職期間最長です。百年もすればフォシェラウ通り、なあんてのが出来るか もしれません。

【始めに】



通りの名前

○ヨハネス・ブラームス・プラッツ (Johannes Brahms- Platz)

 1998年4月3日はハンブルクの生んだ偉大な音楽家、ブラームスが亡くなって百年の命日。こ れを記念して、ムジークハレと呼ぶハンブルクのコンサートホールの前の広場がヨハネス・ブラームス・プラッツと改名されました。それまではカール・ムック・プラッツと呼ばれ、カール・ムック(1859−1940)はハンブルクで指揮者として活躍した人で、1933年のブラームス生誕100年祭でこのホールでタクトを振りました。

 カール・ムック・プラッツの前はホルシュテン・プラッツという名前だったのですが 、1934年にカール・ムックが75才になったことをお祝いして、カール・ムック・プラ ッツと改名されたのです。1930年代といえばナチ華やかりし頃。その頃の傾向として 公共道路や広場などには功績あるナチ党員の名前を付けるのが流行り、今の市役所前 広場もアドルフ・ヒットラー・プラッツと呼ばれた時代もありました。

 ナチ党員の名前に命名するのはフツーだったのですが、音楽家も含め芸術家の名前を 付けたのは例外的。これもカール・ムックがナチに浸透していたからだといわれます 。ムックと呼ばれて60年。ハンブルクにあるブラームス協会が改名することを提案し て賛否両論。名前が変われば、名刺やレターヘッドも変えなきゃなりません。でもブ ラームスの生きていた頃のハンブルク側の冷遇ぶりを省みれば、印刷代なんて大した ことない!

 ちなみに通りの名前は市民または利益団体(ブラームス協会など)が提案し、それを 関係する区役所で検討、最終的には州政府が決定を下します。4月3日の13時、ヴァイ ス文化大臣がテープカットしてからヨハネス・ブラームス・プラッツがハンブルクの 地図に登場しました。

【始めに】


○ジーリッヒ通り(Sierichstrasse)

 金細工師だったアドルフ・ジアリッヒは、19世紀の半ばに50万マルクはたいて、アル スター沿いの沼沢地を買い上げ、宅地として売りさばきました。今風で言うデヴェロ ッパーで、かつてのヴィンターフーデ村を宅地造成して高級住宅街に開発したのです。

アドルフ・ジアリッヒは道路に運河、そして橋を建設。新しく作った通りは家族のメ ンバーや友人の名前にちなんで命名したのです(彼は一×組です)。

 ジアリッヒ・シュトラーセは通勤道路で、真昼の12時に一方通行の方向が逆になるの だ。毎日平均し17,000台の車が12時まではヴィンターフーデから市内に向けて走り、 昼の12時から明け方の4時まで町中からヴィンターフーデに向かって走ります。12時 きっかりに反対方向に向かって走っていたら? 最寄りの横町には行って迂回して下 さい。

 ハンブルクとノルダーシュテットには、まだジアリッヒ姓を名乗る人が5人います。 ローブリュゲに住むフーゴ・ジアリッヒ(70)は元エンジニア、今は年金生活を送っ ている。「うちの祖先はブクステフーデの出身だが、アドルフ・ジアリッヒは残念な がら当家の系図には見あたらない。系図がちょっと欠けているんです。」「ただ、19 36年までブラジルのブルーメナウにジアリッヒの家系を引く人がいて、大農園を経営 していたのは覚えています」と記憶をまさぐる。

 当時、この金持ちの農園経営者の相続人を捜していたとのこと。ハンブルクに住んで いたフーゴ・ジアリッヒの一族は、ヴィンターフーデを築いたアドルフ・ジアリッヒ の系統と親戚関係にあることを証明できなかったばっかりに、一銭も相続できなかっ た由。

 厳密に言えば、ハンブルク市民は全てアドルフ・ジアリッヒの相続人だと言えますで しょう。ヴィンターフーデにある町並みを散歩し、ドライブすれば、ジアリッヒのお 陰を被っていることに気づきます。アルスターの運河を結ぶ無数の橋は、人と人を結 んでいるばかりでなく、過去と現在を結んでもいてくれるのです。

<写真はまるで森の中の道を走っているようなジアリッヒ・シュトラーセ>

【始めに】